字形!表記感!文字感!
あなたのはじめて知るもじのはなし

文字。私たちの生活に当たり前のように存在する文字。
それは気づかないうちに私たちの感情を操ったり、生活をスムーズにしてくれたりします。

早稲田大学で日本語学や漢字論を教えていらっしゃる笹原宏之先生に、文字が頭の中でどのように存在しているのか、文字表記の読者に与える影響、そしてこれから求められるフォントについてお話を伺いました。

 

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笹原宏之(ささはら ひろゆき)先生

1965年、東京生まれ。早稲田大学社会科学総合学術院教授(2015年度ティーチングアワード)。博士(文学)。古代文字からネット用語まで漢字と日本語について調査研究を行う。
早大で中国文学を専攻、同大学院で国語学を専攻し、文化女子大専任講師、国立国語研究所主任研究官どを歴任。「常用漢字」「人名用漢字」「JIS漢字」「NHK放送用語」などの策定に携わる。
著書に『日本の漢字』(岩波新書)、『漢字の歴史』(ちくまプリマー新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがあり、『国字の位相と展開』(同)により金田一京助博士記念賞を受賞。

 
 

――笹原先生がフォントに初めて興味を持ったのはいつでしょうか。

小学4年か5年の時に漢和辞典というものを初めて開きました。漢字がたくさん載っていておもしろいなというのが、私が漢字に初めて自覚的に向かい合った時でした。漢和辞典を見ると明朝体がズラーって並んでいるんです。しかし眺めたときになんとなく統一感がない。よく使われている漢字はいろんな人の手が加わって洗練されているんです。でも、ほかの字と比べるとデザインが一貫していないことがある。さらに漢和辞典を作るためだけに活字化された漢字は、やっぱり、その場しのぎのような活字になってしまっていました。その差は歴然としていましたね。

そのころ、教科書や新聞、雑誌、本でも、そういうものが目に付きました。フォント(以下、印刷書体のほかレタリングを含む)は機械が作っているものだと思っていたけど、人間が作っているのだと知りました。

 

――好きなフォントはありますか。

昔、漫画の吹き出しに使われていたフォントのファニー体ですね。ゴシック体や明朝体と違って、手で書いたような書体なんです。その登場人物がしゃべっている感じがして、うまくマッチしているの。後で調べてみたら、稲田茂さんというフォントの神様と呼ばれている人が作ったものでした。今は権利関係かなんかのためにコンピュータにはほとんど搭載されてないのですが、たまたまアニメの「プリキュア」のエンディングの歌詞字幕に使われているのを見かけて、まだ使われていたと嬉しくなりました。あのフォントでいつか本を作ってみたいですね。

あとはね、精興社活字というもので、作家の中にはこれでしか組ませないって人もいるんです。一個一個を見たらバランスが悪かったりするんですよ。だけどトータルで見たらなんかおさまりがいいんですよね。ただ、惜しまれるのは、戦前とか戦後しばらくの岩波新書は精興社の鉛の活字によって一文字一文字プレスしていて、その結果インクのにじみが出ていたんです。そうすると縦線とか横線が太くなったりしていい味わいがありました。ところがそれを忠実に電子印刷に取り入れた精興社の明朝体フォントではなにかが足りなくなったともいわれます。これがコンピュータと紙や物との違いですね。鉛の通りにドットを合わせて作っているのに弱くなってしまうところがあるんですよ。

 

――学生のレポートを見る機会が多いと思うのですがフォントの使い方等に関して思うことはありますか。

あんまり工夫してないですよね。デフォルトで出てきたものを使う人がほとんどで、MS明朝をそのまま使っていたりするのが多くてもったいない。もうちょっと大切なところをお気に入りの書体から選んで強めてみるとか、いろいろ工夫すればいいと思います。あと、コピペをする人がいてね、たとえば「ウィキペディア」のフォントをそのまま持ってくるんだよ。そうすると、それでもうばれてしまうっていうことに気が付かないんですよね(笑)。フォントに関してもうちょっと意識を向けたほうがいい。あとはコピペをすると中華フォントといって中国製の中国語用フォントをそのまま貼り込む人がいますね。日本語の活字じゃないものが現れてきても気づかないんだね。中国の活字と日本の活字はそもそもデザインポリシーが違うのだと気づいたほうがいいですね。

 

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――中国と日本のフォントのデザインの違いとは。

例えばウ冠の一画目はどうなっていると思う。日本語では短い縦棒が一般的なんですよ。点とか少し浮いた点はほとんどが中華フォントのものなんです。手書きでは、日本人でも点の人がいますよね。日本語の手書きではどれでもいいとこの前、文化庁から指針が出されました(笹原先生は副主査として策定に関わりました)。いってしまえばデザインの違いにすぎず、実はどっちでもいいんです。ただ、日本の伝統的な明朝体などの活字のデザインだとそこは縦棒で、中国の今のデザインだと点なんだよね。中国はこういうのは国で統一しますが、日本の場合は各々がいろんな風にデザインポリシーを発揮できるようにしています。

 

――そうなると文字というものが百年後に全く違ったものになるのではないですか。

そうかもしれないね。ただ、例えばウ冠(宀)はゴシック体だと左下の点や右下のはねの部分がどうなっているか分かりますか? ゴシックだといずれも縦棒なんです。つまり、それらはデザインだけが違っていて、骨組みは一緒なんです。頭の中にボヤっとした骨組みがあるんです。そういう漠然とした文字の骨組みを字体と呼びます。人々が漢字を書くとおのおの微妙に違った形になりますよね。そのように実現したものを字形と呼びます。字体は、例えば、「山」という字があったとして、頭に浮かぶ字形はどういうものですか? そこにデザイン性はないですよね。おそらく、下線があって、両端の縦線の長さが同じで、真ん中の縦線が少し高い。ある程度のルールがあるだけなんです。この字体を手で書くと同じ人でも違う字形になるのです。

 

――フォントによって読者にどんな影響があると思いますか。

フォントが与える働きは二つあると思っていて、一つは無色透明で読者に干渉しないということです。要するに、本を読むとき、この字形の先端が出てないのなんで?とか、字のバランスがおかしいとか、字に意識を向けさせないで、ただ文章をスラスラ読ませる、内容をきれいに頭に入れさせるという働きです。それは内容の理解に何の影響も与えないっていう意味で一つ理想です。

一方で、読者に影響を与えるフォントもあっていいと思います。内容に関わらない摩擦はないほうがいいと思いますが、この本や場面の雰囲気を活字の力も駆使して表したいというケースはやはりあります。この古風な内容にはこの古風なフォントといったように。それに応えられるフォントの字を読めば、知らず知らずのうちに作品世界に入れてしまう。「窓際のトットちゃん」というベストセラーが1981年に出ましたが、明朝体じゃないタイポスという本文書体が使われていて独特の軽さ、新鮮さが伝わってきました。

 

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――漢字は意味を伴った表意文字ですがフォントによって漢字のイメージが良くなったりすることはありますか。

あると思います。とくに個別の単語について力が発揮されると思います。明朝体とゴシック体とナール体をそれぞれ用意して、ひらがなとカタカナと漢字と簡略化される前の漢字で「いちご」「イチゴ」「苺」「莓」と書いて、どれが一番かわいいですか?と大学生に聞いてみたことがあります。いちごの場合はひらがながかわいいとか、「莓」という漢字は毒みたいで嫌だとか、様々な感想が出てきました。これについて表記感や文字感(細かくは書体感)と私は名付けました。

表記感は単語ごとに揺れが出ます。「ぶどう」はまた違って、漢字の「葡萄」だったらはっきりと高級感が出ますよね。他にも、「まつげ」と「まゆげ」と「はなげ」で、表記はどれがいいのかとか。同じ毛なのですが、「まつげ」はかわいいので「毛」をやめてひらがなにするが、「はなげ」は汚く感じるので「鼻毛」と漢字にする傾向が見つかりました。これも表記感の効果ですね。毛なのですがまつげは別格で、まゆげも女の子はひらがなにしたりしますよね。単語ごとに傾向性があるから大変です。
でも、本の場合だと、イチゴという3字だけを丸ゴシックにしたりしたら、かえって変ですよね。そういうことはしないほうがいい。ただ、ポスターとかお菓子のパッケージとか作ったりするときには大いにフォントを利用するといいです。だから、単語とか目的とか対象といったものでフォントを選んで変える。これをしないとマーケティング上もうまくいきません。これはしっかり意識も調査したうえで利用しない手はありません。

 

――フォントにも流行り廃りがあると思いますがこれから求められるフォントとは何だと思いますか。

ひとつは、コンピュータのドットの明滅によって字形を表現するようなメディアでは、さらに見やすいフォントが求められると思います。横線が細くてウロコをもった明朝体と違って、ただ真横に伸びた線のほうが視認性は高いように感じられます。細かなデザインというものがノイズにしかならないのであれば取ったほうがいいと思います。

この先、文字はさらに熟読玩味するよりもパッと塊でとらえるようになっていくでしょうから、たとえば「す」は筆の流れがわかるものよりも、ただ「ナ」の左下に丸いものが接しているようなデザインのほうが、読む際には有利かもしれません。読み取りに特化した文字としては、ということです。

 

――読み取りに特化した文字ということは一つのフォントに統一化される可能性があるということですか。

みんなが読みやすいって文字があれば統一化されると思うけど、ただ面白いことに人間の感覚っていうものはかなり個人差もあるから、日本人の場合は統一されないと私はみています。集約化されるってなってもこれがベストだってものはなかなか出てこないです。それはいいことだと思っています。

いろんなフォントデザイナーがいて、もっといいもの、新しいものをと、デザインの要素を付け加えていく人がいれば、そぎ落としてもっと簡潔なフォントを作るんだって人もいますよね。いろんな方法で最良なものに迫っている人たちがいて、まだ最適解は出ていないところを見ると、たとえばこのグループの人にはこのフォントが適していて、あのグループにはこれが合っている、といった位相さえもあるのだと思います。

 

――人それぞれの感覚にあったフォントということですね。

いろんな意味で日本は多様性があるから、いってしまえば、大阪人が好むフォントっていうのがあるはずなんです。あれだけ共通語と違う大阪弁でしゃべっている人たちが、なんで東京人と全く同じフォントに愛着を感じるのでしょう。大阪人には大阪人にあったフォントというものがあるのではないでしょうか。フォントと詳しい方と話していたら、モリサワのフォントと写研のフォントは地域差があるような気がすると言われたんです。モリサワは本社が大阪にあるせいか、大阪っぽくて、写研のフォントは東京っぽいと。言われてみると、モリサワのほうがいい意味で泥臭い感じがしてきました。そして写研はある種の洗練された東京っぽさが感じられるかもしれない。

そしてね、九州人だったらこのフォント、どこどこの地域の人だったらこのフォントが好まれる、なんてこともありえますよね。センター試験なんかは共通のフォントだから実は有利不利があるのかもしれないね(笑)。そういう人間のもつ多彩なニーズに応えられるようなフォントも開発されればいいと思います。

 

――フォントがもっとたくさんの人に利用されるにはどうしたらいいですか。

日本のフォント業界は、最近出た『もじ部』などを見ても、自由競争による開発と相互批判が続いていて素晴らしいと思います。ただ、どこの社会もそうですが玄人集団みたいな感じがなくもありません。また、ステンシルがはやると装丁やポスターに溢れかえって、すぐに飽きられてしまうという風潮はいやですね。活字の力はまだまだ残されていると思うので、日本のフォント業界にはもっと前に出てきてほしい。

私たちが子供の時には町中にレタリングされた文字がいっぱいありました。テレビだって道路や駅や野球場や映画館だってそうだった。自分が書いたり、真似したりというものがね。そこには子供から見たって下手なものもあったけど、店の個性のように感じさせたり、そこにしかない味わいが出たりしていました。そういう冒険が今のフォントではなかなかできない。いや見つけられないだけなのかもしれませんが、それはそれで問題です。実はデザインに任された幅は大きいのです。字によってははねてもはねなくてもどっちでもいいものだってあるのですから、そういう文字の自由さみたいなものを一般の人に浸透させてくれるようなフォントまで出てきてくれることを願っています。

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