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合格体験記

合格体験記 vol.17

【ペンネーム】オレンジピール

2006年3月 埼玉県私立狭山ヶ丘高校卒業
同年4月 早稲田予備校高田馬場校文科系完全攻略コース1組入学
       →スーパー早稲田90文科系特別進学コース編入
2007年4月 早稲田大学教育学部社会学科社会科学専修入学


予備校決め浪人(春)浪人(夏)浪人(秋)浪人(冬)浪人(直前)センター一般(早稲田以外)
早稲田入試最後に


■予備校決め

浪人をすることを決めた後、私はすぐに予備校探しを始めた。
大手のパンフレットを集めたり、高校の先生の話を色々聞いたりして、河合の難関私立コースに学校の推薦で入ることを決めた。
高校の先生に推薦書を書いてもらい、あとは提出するだけだったある日。
何気なくインターネットで「早稲田」と検索した時に出た、早稲田予備校のホームページに、ふと目が止まった。

「早稲田に強い!!」

どこかで見た事のあるフレーズだった。
そう、本命の早稲田大学教育学部入試の帰りの電車で見た、広告の紙に載っていたフレーズだ。
ちょっとした好奇心からホームページを見てみると、早稲田予備校というだけあって、ほとんど早稲田対策の授業だった。
もう予備校は決めたはずだったのに、何故か心が揺らいだ。
「とりあえず見学だけ行ってみよう」
そう思って、入試以来行っていなかった高田馬場へと足を運んだ。

「やっぱり、来年こそは早稲田に行きたい」
高田馬場に着いて、改めて自分の気持ちを再確認した。
もう一年、早稲田に行くためのチャンスを与えてもらえたのは、本当に幸せなことだ。
「このチャンスを絶対モノにしよう」と、心に誓った。

早稲田予備校は、高田馬場駅のすぐ近くで、綺麗でアットホームな印象だった。体験授業を受けてみて、講師の先生をすっかり気に入ってしまった。
早稲田の赤本が、何十年分もある事にも惹かれた。
だが、なによりも私にとって魅力的だった条件は、早稲田大学に近い事だった。
もしここに通う事になったら、バス乗り場に列を作ったり、夜中にロータリーで騒いでいる早大生を、毎日見ることが出来る。
自分が辿り着きたい場所にいる彼らを常に見ることによって、モチベーションを保てると思った。
とにかく少しでも早稲田の近くにいたかった。

決断は早かった。
せっかく書いてもらった推薦書を捨て、私は早稲田予備校に通うことに決めた。
親は、私の予備校選びに何も口を挟まず、ただ
「一年間、自分が満足する結果が出せるよう、精一杯頑張りなさい」
と言って、高い予備校の入学金と授業料を払ってくれた。

世の中には、どうしても行きたい大学があって浪人したくても、家庭の事情などで出来ない人がたくさんいる。
私は、恵まれている。
浪人出来る事を当たり前だと思ってはいけない。
「ここまでしてくれる親のためにも、何とかして早稲田に合格しなくては」
たくさんの誓いと共に、私の浪人生活は始まった。



■浪人(春)

私はまず、現役の時の反省を元に、受験勉強をするにあたって守るべきルールを決めた。

  @授業の予習復習をしっかりとやり、遅れをとらないようにする。
  A手を広げすぎない。やると決めたことを最後までしっかりやる。
  B人に流されずに、自分のペースで勉強する。(簡単そうで、難しい)
  C規則正しい生活をする。(現役の頃は無茶なことばかりしていたが、一つも良いことはなかった。)
  Dメリハリをつける。(やる時はやる、やらない時はやらない。)
  E疑問を残さないようにする。先生を最大限利用する。
  F効率の良い勉強を常に心がける。(一年という期間は、長そうで短い。)
  G机で勉強するモノと、しないモノとで分け、暗記はなるべく隙間時間を利用する。


現役の時に、ほぼ全落ちという苦い経験をしたので、「二度と同じ過ちを繰り返すものか」
と、かつての自分がやっていたことを思い返しながら決めた。
一年間の浪人生活は、このルールを軸にして過ごした。


予備校の入学手続きやオリエンテーションなどを終え、後は授業開始を待つのみ。
不安を感じながらも、「頑張るぞ!!」と意気込んでいた、そんなある日。
おばあちゃんが入院している病院から、一本の電話がきた。

「おばあちゃんが、危ない」

信じられなかった。
「もう身近な人を失いたくない」
と、おじいちゃんが亡くなった時、あれほど思ったのに。

病院に着いた時、おばあちゃんは、人工呼吸器でなんとか命を繋いでいた。
私は、最後におばあちゃんのお見舞いに行った時のことを思い出した。
一週間ほど前のことだった。

「私ね、早稲田大学を目指して浪人することにしたの!!」
病院で闘病生活を送っていたおばあちゃん。
病気で体が麻痺していて、自分で動かすことが出来なかった。
声を出すことさえ出来なかった。
それでも、大きな目を見開いて、私の話を一生懸命聞いてくれた。
私は、その日は異常なほどしゃべったのを覚えている。

「早稲田に入りたいんだ。
もし私が受かったら、いっぱい自慢できちゃうね。
予備校も、もう決めたんだよ」

早稲田の話題ばかりした。
この日が最後になるなんて、思ってもいなかった。

おばあちゃんは、人工呼吸器をつけて、七日間頑張って生き続けてくれた。

そして四月一五日
とうとう亡くなってしまった。

私は、冷たくなっていくおばあちゃんにしがみつきながら、
「まだ約束果たしてないよ!!!」
と号泣した。
親に「もう離してあげて」
といわれるまで、おばあちゃんの手を離そうとしなかった。
このことは、今でもリアルに思い出せる。
でも、いくら泣いても、亡くなった人は帰ってはこなかった。

最後の対面。
棺に入ったおばあちゃんに、
「私、おばあちゃんとの約束、必ず守るから」
そう大きな声で言って、お花と手紙を顔の横にそっと置き、さよならをした。

「必ず、約束を果たす。」

私から、おばあちゃんへの最後の約束。
何が何でも、守ろうと思った。


予備校での授業が始まった。
この頃はまだ授業に慣れず、予習と復習に追われていっぱいいっぱいだったが、とても充実していた。
しかし、私には一つ不満な事があった。
それは自分のいるクラスだ。
早稲田予備校は、入学時に受けるテスト結果でクラスを決められるのだが、私は上から二番目のクラスだった。
現役の時は井の中の蛙思考だった私だが、浪人してからは違った。
滑り止めだと思っていた学校にさえ落ちたため、謙虚に考えるようになった。
「この予備校の中でさえ、私は二番目のクラス。全国の早稲田志望の人の中だと、一体何番目なんだろう」
考えなくても、答えはわかる。
そんなの、下から数えた方が早いに決まってる。
ここで一番上のクラスにいないなんて、やばいと思った。
このままじゃいけない。
とりあえずここの予備校の中で、上位に入ろうと決めた。

長い受験生活の中で、小さな目標を作ることは大切だ。
実現出来そうな目標を一つ作る。
そしてそれを達成したら、また次のステップへ上がるための目標を、一つ決める。
大きすぎる目標ばかりだと、何をすればいいのかわからなくなってしまう。
だから、小さな目標を積み立てていって大きな目標へ近づいていく事は、遠回りのように見えて実は近道なんじゃないだろうか。

クラスを上がるための条件は、夏休み前までの校内模試で、基準の偏差値まで達していることだった。
具体的な目標があると、やる気が出る。
私は、毎日朝から晩まで塾に引きこもって勉強をした。
授業が終わると、自習室のお気に入りの席を取るために、教室を飛び出す。
授業後、教室に残ってダラダラと話をしている人もいたが、私にはそんな暇はなかった。
ただひたすら、机に向かった。
たまに友達とおしゃべりをすることもあったが、ある程度の時間が経ったら、自分から「そろそろ戻るね」と切り上げて、自習室に戻った。
それでも私よりできる人は、塾にたくさんいた。
明らかに私の方が勉強量は多いはずなのに、私より上の点数を取っている人がいる。
悔しくてたまらなかった。
「どうして自分は、こんなにも効率が悪いのだろう」
と、自分の馬鹿さを恨めしく思ったりもした。
そして、
「自分は他人より馬鹿なんだから、上に行くには他の人の倍勉強しなければならない」
こう考えて、もっともっと努力するようになった。


夏休み前に、塾長に呼び出された。
模試の偏差値は、急激に上がっていた。
約10位上がった。
その結果、クラスを上がれることになり、とても嬉しかった。
でも、これはあくまでも校内での話。
私が戦う相手は全国にいる。
あまり浮かれずに、ただ

「力がついている」

という事実だけを、喜ぶようにした。



■浪人(夏)

受験の天王山。
私は毎日、予備校と家の往復を繰り返した。
朝から晩まで予備校にいた。
それでも夏休みの感想は、「短い」の一言に尽きる。
やることがありすぎて、毎日何かに追われていた。
夏休みは、特に日本史に力を入れた。
ある程度基礎は出来ていたものの、「自分のレベルでは早稲田にはまだほど遠い」
という事は、受験結果から痛いほど実感していた。

授業の復習をひたすらして、二学期の近現代のおさらいを少しした。
国語はある程度自信があったので、予備校の講習を受ける以外の勉強は特にしなかった。でも、古典文法は講習を取らなかったせいもあって、自分で問題集を解いた。

そして、私の大の苦手の英語。
勉強するきっかけがないとすぐ国語や日本史ばかりやってしまうので、いくつか講習を取り、強制的に勉強する環境を作った。
毎日必ず長文に触れ、文法を自分で一通り復習した。
英語に毎日触れていたおかげで、苦手意識がだんだん無くなっていったように思う。
とにかく夏は全体的に量を重視した。

電車でもよく勉強していた。
私の家は高田馬場まで約1時間半ほどかかるので、電車は第二の勉強部屋といっても過言ではなかった。
英単語、英熟語、古文単語、日本史の用語確認…とにかく暗記ものは、電車の中でひたすらやった。
時々電車の中で早稲田のクラッチバックを持っている人を見かけると、なおさら気合いが入った。
「いつか、あれを持つぞ!!」
浪人生で、クラッチバックを買って持っている人もいたが、私は受かってから堂々と買おうと決めていた。
私の夏は、勉強一色だった。
でも、やっぱり遊んでいる人を見かけると、自分だって遊びたくなる。
そんな時は、
「今ここで差をつけなきゃ、いつつけるんだ!!
秋になったら、みんな目の色を変えて同じように頑張るんだから、差がつきにくくなる。今がチャンス!!」

と自分に喝を入れて頑張った。
この頃から、携帯のメモ欄に、自分の決意や自分自身への励ましを打ち込むようになった。
受験が終わる頃は、メモ欄は自分への励ましでいっぱいになった。
予備校の自習室はいつも冷房がきいていて寒いくらいだったので、夏でも長袖を着ていた。
夏という季節を、ほとんど感じない夏だった。



■浪人(秋)

秋になると、周りがみんな浪人生ということもあって、次第にピリピリした雰囲気を感じられるようになった。
周りには、夏が終わってすぐに赤本を解き始めている人がちらほら見かけられたが、焦らず自分のペースで勉強しようと思っていた。
夏休みの勉強計画がうまく進んだこともあって、この頃少し余裕が出てきた。
最初は予習復習で精一杯だった授業にも慣れ、自分の勉強をする時間をうまく作れるようになった。
もう、勉強することは苦痛ではなくなっていた。
むしろ、
「早稲田に入るための勉強をしているんだ」
と、嫌いだった英語さえも、抵抗なく黙々と取り組むようになった。
偏差値や成績が上がるたび、早稲田に自分がどんどん近づいている気がして、嬉しかった。


赤本は、10月から徐々に解き始めた。
去年、ほとんど手をつけずに受験を迎えた事を思い出し、
「今年は必ず赤本を制覇してから受験に望む」
と決めていた。
もう、中途半端なままで受験を迎えたくなかった。
できることは全てしてから、受験に望むつもりだった。


11月4日。
早稲田祭。

オープンキャンパスは我慢した私だったが、この日ばかりは我慢出来なかった。
校内模試を二日後に控えていたが、とにかく行きたくて、授業が終わった後早稲田へと向かった。


早稲田祭は、すごかった。
どこもかしこも人だらけで、歩くのさえ一苦労だった。
でも、楽しかった。
ここに来たいという気持ちが、さらに強まった。
「祭」とかかれたハッピを着て、忙しそうにしてる学生。
ステージの上で、パフォーマンスをしている学生。
屋台で友達と仲良さそうに、食べ物を売っている学生。
どの人も、みんなイキイキとしていて、羨ましかった。
絶対この場所で、大学生活を送りたいと思った。

一通り学校内を回った後、私は友達と一緒に、教育学部の校舎へと向かった。

正門から遠く、ほとんど人がいなかった。
キョロキョロと辺りを見回し、どこかに土がある場所はないかと探した。
ベンチなどが置いてある場所の奥に、ちょうど良さそうな場所を見つけた。
ここなら、あまり見る人もいないだろう。
そう思って、二人で小さい穴を掘り始めた。
スコップの代わりに、コーヒーが入っていたカップの底を使って掘った。
そしてその穴に、
「早稲田とご縁がありますように」
と願いを込めて五円玉を埋め、二人で拝んだ。
端から見たら、おかしな二人だっただろう。
校舎に背を向けて、土に向かって手を合わせているんだから。

でも、この時私は真剣だった。
早稲田に入れるのだったら、何でもしようと思っていた。
そして、もし受かったら、
「この五円玉を、二人で掘り出しに来よう」
と約束して、その場所を去った。



■浪人(冬)

この頃から、急に焦りを感じ始めた。
勉強計画は上手くいっているはずなのに、このままの勉強法でいいのか悩んだ。
他人のしている勉強法が良いものに見え、今までの自分の勉強法を変えようかと思ったりもした。
だんだんと、勉強することに苦痛を感じるようになった。
やらなければいけない理由は、自分が一番よく分かっていた。

「早稲田に行きたい。
おばあちゃんと約束したんだ。
もう後はないんだから」


でも、たくさんのプレッシャーを感じて、潰れそうになった。
何度も逃げ出したくなった。
地に足を付けないまま勉強している感じだった。
自習室にこもって勉強していても、集中できなくなって、喫茶店などに場所を変えて勉強したりした。
あんなに早稲田に近い事が嬉しかったのに、帰り道で居酒屋の前で騒いでいたり、ロータリーで校歌を歌ったりしている早大生を見かけると、とても嫌な気持ちになった。
校歌が聞こえる時は、耳を塞いだ。
どうしても手に入れたいのに、届かないモノを見せつけられているようで、悔しかった。
そして、早大生の前を通る時は、何故かとてつもなく惨めな気持ちになった。


ある日、今まで右肩上がりだった校内模試の成績が、急に下がってしまった。
なんと偏差値が15も下がってしまったのだ。
「たかが校内模試」
と気にしないように努めたが、実際、英語も国語もスランプに陥って、全然解けなくなってしまっていたので、かなり落ち込んだ。
何度も塾長に話を聞いてもらった。

「あなただけが、不安なわけじゃない。
この時期は、誰もが不安を感じるものだよ。
今まで必死にやってきたんだから、絶対大丈夫。
自分がやってきたことを信じなさい」


そう言って、励ましてくれた。
塾長の言っている事はもっともな事だと、頭では理解していた。
でも、心はそう簡単には納得しなかった。

クリスマスイブ。
帰りの電車で、四方をカップルに囲まれて、最悪の気分だった。
「クリスマスなんか無くなってしまえ!!」
と、心の底から思った。
一人寂しく問題集を解きながら帰った。
この頃になると、暗記物ではなく、問題集を人目も気にせず電車の中でガリガリ解くようになった。

クリスマス。
この日の私のストレスは、最高潮だった。
昨日のイライラも手伝い、全く勉強に集中できず、いつもより早い時間に帰ることにした。
帰りの支度をして出口に向かおうとした時、一人の講師の先生に会った。
その先生は、早稲田の事が大好きな先生で、自身も早稲田に通っていて、授業中に早稲田の話をたくさんしてくれる、私の大好きな先生だった。
なんだか急に話をしたくなって、先生と椅子に座って、話をしようとした。
すると。
話すよりも先に涙が溢れてしまい、しゃべる事もできずに、私は泣き出してしまった。

先生は驚いてしまい、
「どうした!!誰にいじめられたんだ!!!」
と、的はずれなことを言っていた。
でも、その後色々話を聞いてもらって、不安な気持ちを全部吐き出して、とても楽な気持ちになった。
そして、結局いつもと変わらない時間に帰った。
その日の帰り道、雨が降っていた。私は傘を差しながら、トボトボと帰った。
何故かまた、涙がこぼれてきた。

予備校では、声を押し殺して泣いたせいだろうか。思いっきり声を上げて、泣きたくなった。
幸い、予備校の帰り道はがほとんど通らない場所だったので、私は声を上げて泣いた。
途中、人とすれ違いそうになった時は、傘で顔を隠して咳き込んでいるふりをした。
泣きながら、
「私は本当に早稲田に行きたいんだな」
と改めて実感した。

家に帰った頃には、気持ちも落ち着いていた。
気持ちを再確認出来たこともあり、次の日からまた勉強を頑張るようになった。
もう、迷いは無かった。
後はひたすらゴールまで突き進もうと思った。
このクリスマスは、絶対に、忘れない。



■浪人(直前)

浪人時代の楽しみは、コンビニの新作パンだった。
毎日、夕食は近くのコンビニですませていたので、パンはほぼ全種類を制覇し、店員さんの顔も全て把握していた。

かなりの金額を、あのコンビニには落としたと思う。
直前期になると、格好を気にしなくなった私は、前髪を上げ、後ろで髪を縛り、眼鏡という出で立ちで、毎日コンビニまで行った。
きっと、
「いつも決まった時間になるとパン売り場に現れる、変な女だ」
と思われていただろう。
それでも、気にしている余裕は、もう私には無かった。

とにかく少しでも勉強をしたくて、予備校が開くのが遅いため、始発電車で高田馬場まで行き予備校が開くまでマックで勉強したり、予備校が閉まった後も、終電を逃さない程度にカフェで粘って勉強した。
質問もよくするようになり、今までの倍くらい先生に質問をしに行き、驚かれた。
朝早く行って、先生が来るのと同時に質問を浴びせ、分からないことはどんな基礎でも恥ずかしがらずに聞いた。
必死だった。もう後は無いと感じていた。
とにかく、この頃の私はすごかった。
狂ったように、勉強ばかりしていた。
親には無理をしすぎるなと心配され、予備校のスタッフさんにも、あまり自分を追いつめるなと何度も言われた。
でも、私にはもう後が無い。今やらずに、いつやる!!

終わってから後悔したって遅いんだ。大隈さんは、きっと私の頑張りを見てくれている!!!
そう自分に言い聞かせ、手が痛くなるまで勉強した。
疲れもピークに達していて、それまでは勉強していた電車の中で寝てしまうこともしばしばあった。
一日が本当に短く、あっという間に何日も過ぎていった。

赤本も、コツコツ解き続けたかいもあって、早稲田は何十年分も解けた。
周りを見て焦ることはたくさんあったが、ここまで続けてきた自分の勉強法にだんだん自信をもち、最後まで納得いく勉強が出来た。



■センター

日本史94  国語141  英語151

●東京女子大学 現代文化学部 コミュニケーション学科。合格
●東京女子大学 現代文化学部 地域文化学科。合格


今年もセンターで受かる気は全く無く、試験慣れのつもりで受けた。
絶対受かるはずはないと思っていたので、かなり驚いた。
最初の結果発表だったので、お母さんが安心して大泣きしたらしい。



■一般(早稲田以外)

●東京女子大学 現代文化学科 コミュニケーション学科。合格

去年のトラウマが、よみがえる。
絶対に周りを気にしないようにしようと努め、日本史と国語はなんとか切り抜けた。
しかし英語で問題をよく見ておらず、読み方を間違えて時間が無くなる。結局焦る。
奮闘した結果、なんとか合格。


●成蹊大学 文学部 現代社会学科。合格

かなり落ち着いて受けることが出来た。
休み時間に、
「脳の働きが良くなるから!!」
と母に言われて持っていったバナナを食べたことが、印象に残っている。


●中央大学 文学部 人文社会学科。合格

日本史と国語は良く出来たと思ったが、英語が微妙な手応えだった。
電話の合格発表の女の人の声が一番優しいと、家で一番人気だった。
ちなみに一番不人気は、立教だった。


●立教大学 社会科学部 現代社会学科 全学部日程。不合格

自信のあった日本史で、凡ミスを連発。英語も読めなくて、必死にかじりつきながらも、
「これは無理っぽいなぁ」
と思っていたら、案の定不合格。


●立教大学 社会科学部 現代社会学科 個別日程。合格

何故か一番自信があった。
試験中、去年歯が立たなかった日本史がスラスラ解けて、
「この一年で実力がついたんだな」
と実感して嬉しかった。
去年のリベンジを果たしたと思った。


●明治大学 情報コミュニケーション学部 情報コミュニケーション学科 全学部日程。合格

受かってるとは思わなかった。
英語でいくつも曖昧な答えがあって、自信が無かった。
多分、日本史で何とかなったのだと思う。


●明治大学 情報コミュニケーション学部 情報コミュニケーション学科 個別日程。合格

一番自信が無かった。
英語の問題形式が急に変わって時間配分に失敗し、大問をいくつか勘で処理した。
日本史も、凡ミス連発。
帰ってから、大泣きした。
合格発表の前日、結果を聞くか親と喧嘩した。
私は「どうせ落ちている結果を聞いても、他の受験に悪い影響が出るだけだ」
と言い張って聞こうとせず、予備校に逃げたが、お昼前に電話でお母さんが泣きながら合格の知らせをしてくれて、本当に信じられなかった。
びっくりしすぎて涙も出なかった。



■早稲田入試

ついにやってきた早稲田入試。
いつもの通い慣れている高田馬場までの道のりなのに、緊張して電車の乗り換えの時など、間違っていないか、ビクビクしてしまった。
やるだけのことは、やった。
後は全力を尽くすのみ。

早稲田の入試の日は、必ずおばあちゃんの仏壇に手を合わせてから出かけた。
両親は毎日、私と一緒に拝んでくれた。
受験票は、届いた日にすぐ仏壇に置いたので、毎日家を出る前に、そこから取って出て行く。
私の受験票は、ほんのりとお線香の香りを放っていた。
「頑張りなさい」
そう言ってくれている気がした。
お守りに、おばあちゃんがいつも身に付けていた数珠を持っていった。

おばあちゃんとの約束を、果たす時が来た。

私は会場に着いたらまず、自分のボロボロになった勉強道具を、いつも机の上に置いた。
これだけやったんだという自信にもなるし、周りの受験生をビビらす事も出来る。
休み時間にはトイレに行き、妹からの手紙を読んだ。
私には妹が二人いて、早稲田の入試の時だけ、毎回励ましの手紙を書いてくれた。
私が本当に早稲田に行きたいと思っている事を知っていたから、二人ともたくさん応援してくれた。
毎回笑える内容で、読むことでリラックスする事ができた。

そして、入試の日はいつも、
「ご縁がありますように」
と、五円玉を学校内に投げてから帰った。


●早稲田大学法学部。不合格
法には興味がなかったのだが、とりあえず受けた。
英語で手応えが無く、得意なはずの国語も壊滅。
「落ちたな」と受けながら思った。

●早稲田大学人間科学部人間環境科学科。合格
英語の自己採点をしたら、去年の自分よりも低くて落ち込む。
日本史も、思ったより出来なかった。
トイレに並んでいる時、隣の女の子に
「私早稲田は記念受験なんです!! もう通う所決まってるんですよね〜」
と話しかけられ
「私は早稲田を目指して、今一浪なんです」
と、いらつきながら返事をしたのを覚えている。


●早稲田大学文学部。不合格
最後の試験だった事もあって、疲労はピークだった。
日本史は良く出来たのだが、英語が出来なかった。
最後まで何とかしようと粘ったが、だめだった。


●早稲田大学商学部。不合格
英語で沈没。
問題の形式が一番苦手で、赤本を解く時に最も苦労した。
日本史の記述も自信がなく、手応えなしで終わった。

●早稲田大学社会科学部。合格
どの教科もまんべんなく出来た。
特にこれが駄目だったという教科もなく、もしかしたら……と淡い期待を抱いた結果、合格!! この日、合格を聞いてすぐに髪を染めに美容院へと走った。

●早稲田大学教育学部社会科社会科学専修。合格
私の第一志望。試験日の朝、一緒に早稲田祭に行った、同じく教育学部第一志望の子と共に、少し早めに早稲田に行った。
あの時埋めた五円玉を拝みに行くつもりだった。
だが残念な事に、教育学部側の門は閉まっており、埋めた場所まで行くことが出来なかった。
結局、門越しに拝んで、受験会場へと向かった。

試験中は、驚くほど冷静だった。
苦手なはずの英語も、集中して取り組め、国語も日本史も大きなミスも無く、順調にこなせた。
でも、合格の確信は、全く無かった。
合格発表は、とてつもなく怖かった。
去年の悪夢を思い出しながら、電話のボタンを押す。

「合格です」

聞いた瞬間耳を疑い、すぐに電話を切って、もう一度かけ直した。


「合格です」


信じられなかった。
涙が止まらなかった。
声が枯れるまで泣き、泣きすぎで顔が痙攣した。
10回ほど、電話をかけ直した。
一緒に聞いたお母さんは大喜びで、知り合いにメールをしまくっていた。
仕事場からお父さんも、電話をかけてきてくれた。
そして私は、おばあちゃんの仏壇にお供え物を置き、合格を報告した。
約束を果たした。
早稲田に受かった。

浪人して、本当に良かったと思った。
「私だってやれば出来るんだ!!」
嬉しかった。
何の悔いも残すことなく、最高の結果をもって私の浪人生活は幕を閉じた。



■最後に

ここまで長い文章を読んでくださって、どうもありがとうございました。
私も受験生の頃、ここの合格体験記をコピーして、マーカーで線を引き、いつも持ち歩いて何度も読んでいました。

受験生活は辛いし、逃げたくもなる。だけど、努力したら必ず結果はついてきます。
私は「自分は馬鹿だから、人一倍努力しなくちゃ合格できない!!」と、普段は謙虚に過ごし、試験の時は「ここまでやったんだから、私より出来る人なんかいるはずがない!!」と自信を持って挑みました。
入試は本当にシンプルです。やれば出来るし、やらなければ出来ない。
早稲田は、本当に良い大学です。頑張ってでも、入る価値があります。
たくさんの可能性に囲まれて生活が出来て、今、私は幸せです。

浪人という期間は、私をたくさん成長させてくれました。

「受かる保証なんて無いし、辛いこともたくさんある。
でも一度だけの人生、悔いを残したくない」


そう思ってこの道を選んで、とても良かったです。
春にこの文章を読んでくれた皆さんが、最高の結果をつかめるよう、応援しています。
努力は必ず報われる!!
最後まであきらめず、頑張れ!!!!



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