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早稲田祭をもっと楽しくするウェブコラム

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マツリ×歴史

変わり続ける早稲田と早稲田祭

早稲田祭運営スタッフ元代表・米原翔馬さん

早稲田祭は年々変わり続ける。それは内容という意味でもそうだが、早稲田の変化にも大きく左右され続けてきた。そこで今回は、「早稲田祭2014」運営スタッフの代表を務め、早稲田も早稲田祭も知り尽くした米原翔馬さんにここ数年の早稲田と早稲田祭について、そして運営としても演者としても早稲田祭に関わった経験のある米原さんだからこそ知る早稲田祭の魅力についてお話を伺った。


 

——米原さんは2014年に運スタの代表を務められていますが、その年まで記念会堂があったんですよね。

そうです。早稲田祭で記念会堂を使うようになったのが2003年からで、2010年まではEnding Festival(以下EF)を大隈講堂前ステージでやっていたんですけど、震災があって大隈講堂前ステージが建てられなくなった関係で2011年2011~2014年は記念会堂の中でやりました。だから2012年くらいがちょうど記念会堂の使い方を模索していた頃だったんだと思います。

 

——ここ数年、記念会堂がない早稲田祭が続いていますが、それについてはどう思われますか。

早稲田祭自体でいうと、本キャンが早稲田祭のメインステージになってしまっていて、僕は文キャン生なので寂しいですね。あとは大きな会場でアーティストのライブをかなり安くできたというのは早稲田祭の魅力の一つでもあったと思うので、それがなくなってしまったのも寂しいです。

実はちょうど僕が1~3年の間に文キャンが大きく変わったんです。以前は、文キャンのスロープはもっと細くて記念会堂側がなかったんですが、33号館を新しく作るのと、31,32号館の改装のために、今フェンスが立っているところの近くに、3階建てくらいのプレハブがあって、僕が2年の時まではそこで授業を受けていました。プレハブの記念会堂側には大きな駐輪場があって、今の学館前の駐輪場がある場所には競技スポーツセンターの事務所が建っていました。まあなにが言いたいかというと、ここ数年は毎年文キャンの構造が変わってきたから、同じ景色の早稲田祭というのは少なくとも2012~2014年の間はなかったし、記念会堂がなくなることになってここ2年間もあんな感じだから、僕はきれいな文キャンでの早稲田祭っていうのを見たことがないんです。

 

——記念会堂がなくなることがわかったのはいつごろなんでしょうか。

僕の代が終わって、次の代表が決まったくらいのタイミングですね。しかも僕らが早稲田祭をやっている間は一切その話はなかったんです。それよりも、むしろ本キャンの3号館の工事が終わるか終わらないかの時期で、3号館の周りのフェンスを外せるかどうかっていう交渉を大学側としていたところだったから記念会堂なんてノーマークで、気づいたらなくなるという話になっていました。

 

——ということはここ数年でめまぐるしく変わったんですね。その記念会堂があと数年で復活するわけですが、記念会堂が復活したらどんな企画をやってみたいですか?

今年実現されるみたいだけど、僕が代表をやっていたときにやりたかったのは、テーマソングライブですね。でも結局、早稲田祭当日には実現できなくて、それの代わりといってはなんだけど僕ができた精一杯のことが前月祭を作ることだったんです。僕の代の他団体の代表が集まって、運スタ主導じゃない早稲田祭へのモチベーションアップのためのイベントを一つ打ちたいという話になりました。でも、僕は全面協力はするけど表舞台にはたたないし、運営とか構成にも全く関わらなかった。それに、前月祭は10月にやるけど前月祭っていう名前にする必要もなかったんです。でも僕が「早稲田祭の1か月前だし、運スタは1週間前と1日前にイベントを打ってるから、早稲田祭1か月前のイベントとして団体側がイベントを打ってくれたら嬉しい」とお願いをして前月祭という名前でやってもらったんです。そして、その一回目のオープニングアクトとしてそのときのテーマソングのバンドのライブをやってもらいました。

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——前月祭ができた経緯は初めて知りました。前月祭というとパフォサーのためのイベントという印象です。

むしろ僕の狙いはそこです。早稲田祭を明らかに意識しているんだけど、運スタが全く関わってない聖域的なところを作りたかったんです。それでいつかパフォサーが運スタを食うんじゃないかっていうくらい大きいイベントを作る巨大勢力になってほしくて、そしたら運スタともいい相乗効果になるんじゃないかと思ってます。

 

——米原さんが前月祭結成の関わっていたというのは初耳だったのですが、では逆に代表時代にやりきれなかったことなどはあるのでしょうか。

こうやって振り返ってみると、自分が代表だったときの早稲田祭に関しては結構満足してるんですよね。でも、強いて言うなら運スタという組織の意識改革は弱かったと思います。引退してから痛感したのが、代表というのは本当に運スタの顔になるんだということです。それに自分の中の良いところも悪いところも下に伝えきれなかったことがすごい心残りです。やっぱり600人という大きな組織だと、どうしても伝わりきらないところがあって、それは早稲田祭の代表というより、一つのサークルの幹事長として良くなかったと思います。だから運スタのことを批判している自分もいるけど、同時に自分も責任を感じますね。

 

——大きな組織だからこそ難しいところですね。

そうですね。3年生のときに10°barという高田馬場にあった学生経営のバーでバイトを始めたんですけど、その時もたった6~7人の組織でもまわすのは大変だったんですよね。まあ1人1人の個性が強すぎたっていうのもあるんだけど(笑)
でも、10°で働いていたときに他のスタッフともいろいろと話して、そこで自分のリーダーシップ観みたいなものが培われたような気はします。

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