マツリバナシ。

早稲田祭をもっと楽しくするウェブコラム

狐面
マツリ×妄想②

ワセダミステリ・クラブが書くマツリの世界。

ワセダミステリ・クラブ

前回は児童文学研究会の方に書いていただいた、マツリ×妄想、今回はワセダミステリ・クラブにご協力いただきました!
ちょっぴり怖い、ワセダミステリ・クラブさんらしい作品をどうぞお楽しみください!

 


 

『祭りの夜』 霧越裕

 

急峻な坂道の途上にその医院は佇んでいる。
おそらく近所に住む大半の人間は、そこを病院だとは認識していないだろう。古びた雑居ビルの三階に位置し、看板も錆びていて読めない。診察を受けに来るのは、昔から土地に住む一部の住民ばかりだった。
だが、そんな医院にも入院患者が一人だけあった。
夕暮れのなか、彼はその患者、皺の深い乱れ髪の老女と向かい合っていた。
「先生、今日は外が騒がしいですねえ」
老女のおっとりとしたひび割れ声に彼は頷いた。
「……近くの大学で学祭が催されているようですよ。私も昔はあそこの学生でして。お祭りに乗じて、朝から晩まで遊びまわっていたものです」
老女は彼の話を聞いているのかいないのか、萎れた花が風に吹かれるかのように、ただ体を揺らしているだけだ。
「お祭りといえば」彼は構わず話を続けた。「あなたが書いたこの話もそうですね」
彼は老女のベッドに一冊の大学ノートを置いた。老女は僅かに視線を落とすと、まだあどけない少女のように、小さく首を傾げた。だが皺の奥深くに埋もれてしまった表情は少しも変わらない。彼は妙な居心地の悪さを覚えた。
ノートには老女ののたくった筆跡で、幾つもの物語が記されていた。内容はどれも不可解で、怪談と呼ぶのが最も近い。老女は時たま、思い立ったかのように怪談を書き留める。使用したノートの冊数は、既に数冊に及んでいた。
いま老女の前にある一冊は、彼がその中からようやく探し当てたものだった。
「お祭りは嬉しいです。昨日もお祭りに行きました。お母ちゃんにリンゴ飴を買ってもらって――」
だが、ようやく老女が返した言葉は、病状のせいかまるで脈絡がない。
彼は諦めたように小さくため息をつくと、黙って目的のページを開いた。そこには「祭りの夜」と記されている。彼はおもむろにノートを取り上げると、既に陰りはじめた病室の片隅で、その短い怪談を朗読し始めた。

提灯のあかりが生簀の金魚に反射していた。
彼女は静かにそれを眺めている。隣では父親と母親がお互いを罵りあっていた。兄は不安そうな顔で両親の様子を窺っているが、特に仲裁に入ることもないのだろう。
彼女にとって、それらは嫌になるほど繰り返された日常の風景だった。
本当は神楽を見るはずだったのだ。毎年祭りの時期には、旅の神楽一座がこの村にも巡業してくる。今年も彼らはやって来たが、公演の前日である昨晩、一座の末娘が苔の生えた神社の石段で足を滑らせ、瞬く間に下の石畳に赤黒い花を咲かせた。即死だったという。
末娘はまだ幼いながらに一座では重要な役を与えられていた。突然の代役はきかない。それで彼女が楽しみにしていた神楽は中止になってしまったのだった。
子供たちを伝統芸能に触れさせるのだと息巻いていた父親は、突然の予定変更に苛立ちを隠せないようだった。母親は母親で、そんな父親に軽蔑の目を向けて、これ見よがしにため息をついている。
――あなたはいつもそう。思い通りにいかないと私や子供たちに当たり散らすのよ。
――お前のほうこそ、少しは気遣いでもみせたらどうだ。
そんな応酬が雑踏のなか延々と続く。住民全員が互いの顔と名前を把握しているような、地方の小さな村の秋祭りだ。道行く人々は彼女たち一家を気にせぬ素振りを見せつつも、耳だけはしっかりと諍いに傾けているのだった。
彼女はいたたまれなくなり、両親から僅かに離れた。
だが謗りあう二人は、彼女の姿が見えなくなったことに気づいていない。兄もいよいよ嫌気がさしたのか、先んじてどこかへ消えていた。
それなら、いいか。
彼女は屋台がまばらに点在する神社のなかを、ひとりで好きなように練り歩くことにした。
焦げの多い焼きとうもろこし、しぼんだ綿あめに、やや歪んだお面。コルク弾の射的と、その隣に青い鳥を模した水笛。彼女の心はひと足進むたびに弾んだ。
だが歩いていると、すぐ神社の端っこに行き着いてしまい、屋台は途切れた。もう終わり。戻るしかない。
彼女が暗い気持ちで回れ右をしかけたそのとき、ふと神社の裏手にある山の中腹に、かすかな灯りを見つけた。
なんだろうあれ。
靄のかかったような明るさだ。だが提灯だとは思えない。またあんな場所に屋台があるはずもない。
……まあいいか。
両親の元へ引き返す気にもなれず、彼女は社の脇道から山道に入った。
どれくらい歩いたろうか。目指す灯りは近いようで、まだ遠い。疲れた彼女は路傍の石に腰をおろして休むことにした。
――あんた、どこの子?
突然聞こえた背後からの声に彼女が振り返ると、髪の長い女が佇んでいた。女はなぜか顔に狐の面を付けている。透き通るような白面の狐。
彼女は女と向かい合って、自然と言葉を交わした。女との会話は心地よく、彼女はいつになく穏やかな気持ちになった。
しばらくすると、女がこんなことをいい出した。
――一緒に行かない?
彼女は頷いて、女の冷たい手を握った。
でも、どこに行くの。
そう尋ねると、女ははずんだ声で、おまつり、とだけいった。
女はどうやら先ほどの灯りを目指しているようだった。獣道を慣れた足取りで登っていく。あれほど遠く感じた灯りも、気がつくと彼女のすぐ目の前にあった。
灯りは古びた小屋から漏れていたものだった。経年の劣化のせいで朽ちており、人家には見えない。だが、内には誰かがいるようだ。複数の影法師が罅のはいったすり硝子を這いまわっている。
彼女は少し怖くなり、女の手を一層強く握りしめた。
戸を開けると大人の男が立っていた。女と同じ狐面を付けている。
女に誘われ、彼女は奥の間へ向かった。
襖を引き開ける。
籠(こも)っていた灯りが奔流となって彼女を包んだ。
八畳ほどの座敷で天狗と鬼が踊っていた。行燈の揺らめきに照らしだされた彼らは、狂ったようにそこらを往来し、飛び跳ねている。ああ、彼らはこの世のものではない。彼女は呆然としながら、そう思った。
隅のほうには恐ろしい顔の老人が座していた。老人は異形の者たちに、じっと視線を注いでいる。
彼女にとっては、どれもぜんぶ怖しく、美しかった。
気がつくと彼女も狐面をかぶっていた。
この狐面はもうはずれない。彼女はずっと祭囃子のなかにいる。
そういえば、家族はどうしよう。
まあ、いいか。

彼はノートを閉じると老女に向き直った。
秋の日が昔から釣瓶落としといわれるように、病室内はこの短時間で早くも夜の色に侵食されていた。老女の表情もより一層判別しにくくなっている。
「この怪談、いささか奇妙ではありませんか。もちろん話の内容は別にしてですよ」
虚空に立ち向かっている気分になりながら、彼は話し出した。遠くのほうで聞こえる学生たちの声は、まるで違う世界からの交信のようだった。
「この怪談では、〈彼女〉は狐面を被ることで異形の仲間入りを果たします。最後の書きぶりからして、家族と別れ消息も絶ったのでしょう。しかし、それならば、一体誰がこの怪談を語れるのでしょうか」
彼は知っている。これは屁理屈に過ぎない。単なる妄想であると反論されれば、それでおしまいだ。だが同時に彼は老女がそんな言葉を口にしないことも知っていた。でなければ、こんな怪談をわざわざ記すことはしないだろう。
「その答えはおのずと限定されます。まず〈彼女〉自身。そして消息を絶った後の〈彼女〉を知っている者。両者のどちらかです。後者について補足するなら、〈彼女〉が消えたその祭りの日に、同じ場所にいた人物でしょうね。屋台などの描写がやけに具体的ですから」
老女からはなにも返ってこない。それでも彼は続けた。これが砂上の楼閣めいた追及であることを自覚しながら。
「私のいっていることを理解していますね? この怪談の語り手は、つまりあなたは、両者のどちらかであるはずなんです。いえ、猿芝居はやめにしましょう。私はある理由から、あなたが後者であることを知っています」
暗闇のなかで老女が微笑んだような気がした。それは彼がとらわれた幻想であったかもしれない。だが、確かに彼はそんな気がしたのだ。
「これはね、怪談なんかじゃないんです。まぎれもなく実際にあった出来事なんですよ。それはあなたが一番ご存知なはずですが、どうせなにも語ってはくれないのでしょうね。それで構いません。ただ私の話を聞いてくれればいい。
あなたの正体、それはおそらく〈彼女〉を連れ去った〈女〉ではないでしょうか。なにしろ祭りの夜に〈彼女〉の失踪に深く関わった人物ですから。では、〈女〉は何者だったか。手がかりは出会いの場面にあります。〈女〉は〈彼女〉に『どこの子』だと尋ねていますが、これはおかしい。〈彼女〉が住んでいたのは『住民全員が互いの顔と名前を把握しているような、地方の小さな村』だった。にも拘わらず、〈女〉は〈彼女〉が誰だかわかりませんでした。つまり、〈女〉は地元の人間ではなかったんです。
さて、その時期、村にいた余所者は誰か。もっとも怪しいのが巡業で来ていた神楽一座の人間です。なぜならそう考えると、〈女〉がかぶっていた狐面にも説明がつきますから。神楽には狐の舞というものがあり、これは男狐と女狐がペアになって舞う演目です。もうわかりますよね。小屋にいた天狗も鬼も、神楽の面のなかに存在しています。隅にいた老人は翁でしょう。小屋の住人は神楽一座であり、〈彼女〉が目にしたのは稽古の光景でした」
〈彼女〉が訪れた小屋は、手入れが行き届いておらず、朽ちかけていた。だがそれも一年のうち、祭りの時期だけ一座に貸し出されるものだとすれば納得がいく。小屋は秋になるまでは、野晒しにされていたのだろう。
「〈女〉が〈彼女〉を連れ去った理由は明らかです。欠員を埋めるためですよ。公演の前夜に急死した末娘のね。〈女〉はもともと、末娘と同年代の子供を誘拐する計画を立てており、祭り会場でたまたま目にした〈彼女〉の後を付けたんです。山道で狐面をかぶっていたのは、人に顔を見られないようにするためでしょう。
〈彼女〉がどこに行くのか尋ねた時、〈女〉は『おまつり』とだけ答えています。もちろん嘘はついていません。神楽一座はその時期、各地の秋祭りに引っ張りだこだったはずですから。〈彼女〉も一座の一員になれば、次のお祭りに行くことになります。逆に言えば、そうした稼ぎ時だったからこそ、強引にでも欠員を埋める必要があったんです。末娘の務めていた役がいなくては、興行もままならなかったようですし。
ああ、それと末尾の描写も印象的でした。〈彼女〉が狐面をかぶるのは、一座に入ったことの象徴ではないですか。ずっと祭囃子のなかにいる。これは一つの祭りが終わっても、また別の祭りへ向かうからだと解釈できます」
彼は一息にまくしたてると、老女の反応を待った。暗い病室のなかで彼は老女と静かに対峙していた。
「先生、お祭りはもう終わってしまいましたか」
唐突に老女が発した言葉は、彼の虚を突いた。
だが、すぐに彼は皮肉めいた笑みを顔に浮かべると、秋風の吹き込む窓をゆっくりと閉めた。その寸前、滑り込むようにして、薄茶になったイチョウの葉が桟を越えて床に落ちていった。
「私は先生ではありませんよ。卒業したあの大学に、医学部はありませんから。私はね、法学部を出て刑事になったんです。四十年前に行方不明になった妹の事件を解明するために。もちろんドラマみたいに上手くはいかず、この年齢になるまでかかってしまいましたが。
先ほど、私はある理由からあなたが〈彼女〉ではないと知っている、そういったでしょう。それは私が〈彼女〉の兄だからです。あの日、気まずさから揉める両親のもとに彼女をおいて、その場を立ち去った張本人です。そんな私から見て、あなたに妹の面影は微塵もありません。それにどう見ても、あなたは私よりも年上ですから」
彼は老女に背を向けた。もう話すことはない。彼はコートを羽織ると、病室のドアに手をかけた。
「あの怪談は、妄想なんかじゃないんでしょう」
最後に、彼はすがるようにして、老女を振り返った。
細く開いたドアの隙間から廊下の明かりが差し込んで、老女の皺だらけの顔を照らした。だがやはり、そこにはどのような表情も浮かんではいなかった。

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